DT02-01 ➡ ギャンブルかトレーディングか
トレーディングは人間が最も興奮する行動の 1 つである。 毎日、毎時、そして株価が変動するたびに、アクティブなマーケット参加者の懐具合は劇的に増減する。
勝つ時には急激[きゅうげき]
급격한かつ大幅に勝つこともあるが、負ける時には十分な注意を払わないと、一瞬のうちにマーケットから退場させられる可能性がある。 しかも、永久に、である。
永続的な富を短期間に築くことができる可能性は、経済的な破滅のという妙に刺激的な可能性と相まって、プロのトレーダーという存在にある種の憧慢のイメージを与えている。
しかし、この高水準を要求される職業を目指す者のほとんどは失敗する。
そして、その失敗は悲惨なものである。 この厳しく冷たい現実には、いくつかの要因がある。 ここで、その中でも最も影響力の大きい要因を指摘しよう。
トレーディングの初心者が失敗する要因は「ギャンブル」と「職業としてのトレーディング」を区別できないことである。
企業が「予想通りの」良好な収益発表を行う直前にポジションを積み[つみ]上げてみたり、高速で下落している株を買ってみたりすることは、ナンセンスなギャンブルに相当する行動でもある。
こうした「無分別なが」アプローチも、時には大きな利益を生むかもしれないが、それは東の間の娯楽としての価値しかなく、知的なアプローチとは言えない。
そうした行動をとる者は知的な、かつ十分に検討を重ねたうえでのアプローチをとる資格がない。
娯楽を求めるならば、映画に行くほうが無難で、また安上がりである。 マーケットで安定的に利益を上げたいならば、職業としての、かつ十分に規律のとれた手段によらなければならない。
我々がニューズレターで紹介する銘柄について、非常に詳細なトレーディング戦略を提供する理由はここにある。
我々は当てずっぽうや勘といったものには頼らずに、
①ポジションの適切なとり方、
②ポジションの適切な管理法、そして、もちろん、
③ポジションの適切な手仕舞い方に全面的に依拠している。
マーケットに対して、このような知的かつ十分に検討されたアプローチをとった場合、1つ1つの行動は「ギャンブル」の興奮を欠くかもしれない。
しかし、プロのトレーダーとして、明日も来年も10年後もトレーディングを続けられることが確約される。
賢いトレーディングには計画を実行することも含まれる。
ギャンブルは自分が正しいことを期待して買って売ること以外の何物でもない。
したがって、賢くトレーディングをすることが何よりも重要である。 次に述べることを決して忘れてはならない。
勝つためには、生き残らなければならない。 賢く取引すれば生き残り、ギャンブルをすれば死ぬのである。
すべてのトレーダーは何がトレーディングで何がギャンブルかを誰識しなければならない。
POINT ☞ DT02-01 ➡ ギャンブルかトレーディングか
大きく儲けたいという欲望、換言すればギャンブルは、初心者トレーダーの代名詞のようなものである。
プロのトレーダーは、結局のところ、短期トレーディングが 178 から 1/4、時には 1/4 から 1/2 の確率のゲームであることを明確に認識している。
考えてみてほしい。 マーケット・メーカーはウォール街でも最も優れたプレーヤーである。
いかなる時も彼らは数千万ドルの資金を自由にできる。 彼らの属する証券会社や投資銀行は巨大で影響力があり、とてつもない力を持っている。
真の意味で、最高のトレーダーはウォール街なのである。 彼らがゲームの巨人であり、支配者である。
結果として、彼らは永久に金融界の食物連鎖で最高位にある。
マーケット・メーカーは真のプロである。 彼らの唯一の目的が何であるか分かるだろうか。
彼らのゴールは、トレーディングのすべての瞬間において彼らが取引する銘柄のスプレッド (買値と売値の差)、そう、博をとることに尽きるのである。 もう 1度、前文を読み返してほしい。
そこには短期トレーディングで成功するための鍵が含まれている。 巨額の富を操る金融界の支配者ともいうべき、巨大で力のあるウォール街のマーケット・メーカーは、ただ 1 つのものを追い求めているのである。
スプレッドである。
彼らはアマゾンの 40 ドルの値上がりを求めているのではない。 アメリカ・オンラインの 4 ドルの上昇を追い求めているのでもない。
彼らはギャンプブラーではない。 彼らは最高位のプロのトレーダーであり、彼らの唯一の目的は還をとることなのである。 ここには非常に強烈なメッセージが含まれている。
このメッセージを理解できた者は、トレーディングというゲームに隠された、最もわかりにくい真実を理解することになる。
初心者は 時折[ときおり]
ときどき
가끔 幸運にも大幅な利益を上げることができるかもしれないが、真のプロは小さいが確実な利益を追い求めるのである。 真のプロはそれを何千回も何万回も手にするのである。
技術のない初心者は 1 回の大幅な利益を得ることを唯一の目的としている。 計画を立てることができずに、目標に達することができないことが続けば、よりよいトレーディングは宝くじ銘柄を買うようなものであると考えるようになる。
ウォール街の優れたトレーダーは宝くじ銘柄を買うことはないし、それに期待することもない。
そういった銘柄を初心者に売りつけるのである。 要は、トレーディングをすべきであって、ギャンブルをしてはならないということだ。
DT02-02 ➡ 勝ちは常に勝ちではないし、負けは常に負けではない
利益は、取引が健全であること、あるいは正しかったことの証となるのだろうか。 取引で損失を被った場合はすべて、その取引が間違っていたとみなさなければならないのだろうか。
この 2つの疑問に対する答えは絶対にノーである。
ある特定の取引の結果から、その手法あるいは取引における判断の正しさが判明するものではない。
この事実を理解することのできない多くのトレーダーは、常にある手法から別の手法へ目が移り、自らのトレーディング手法を常に変更している。
結果的に何ら専門的な知識を習得することができないでいる。 コイン投げでも時には当たることがあるということを認識できないトレーダーはあまりにも多い。
時には勝てるとしても、「表が出れば買い、裏が出れば売り」という戦略は決して健全な手法ではない。
ここで言いたいことは、実世界においては、いかに戦略が健全であり、現実的なものであっても、すべての取引で勝てはしないということである。
トレーディング手法には何ら問題がなくても結果は損失ということもあり得る。 逆に、アプローチに問題があっても勝つことはある。
プロは、個別の取引が適切に執行されること (待ちの時間、ポジションをとるタイミング、余資の管理、手仕舞いなど) に集中している限り、自然と勝ちはついてくることを理解している。
ある取引の結果をもって特定のトレーディング手法が健全かどうかは判断せず、少なくとも 10 回の取引をもって判断すべきだろう。
ポジションをとる前に、これが「生涯にわたる」トレーディングの 1つにすぎないということを確認すべきである。
したがって、今回勝って次回負けようが、大きな枠組みの中では大差ないということである。
興怖が生じるとか、機会損失してしまうとか、最終的には精神異常になるのではないかとか、個別の取引の結果にいちいち悩んでいるのなら、この認識によってトレーダーは精神的に救われるだろう。
POINT ☞ DT02-02 ➡ 勝ちは常に勝ちではないし、負けは常に負けではない
プロのトレーダーになることは生涯終わることのない道程であると認識すべきである。 こうした心構えををもったトレーダーは、1回 1回の取引を生涯にわたる取引の中の鞍細な部分にすぎないとみなす。
結果が利益だろうと損失だろうと、その取引自体についてはとるに足らないものであると認識するのである。
こうしたアプローチをとることにより、トレーディングの意思決定に際して初心者が感じがちな取引ごとのプレッシャーが大幅に軽減される。
そして、精神的な安定と明白な意識を醸成することにより、1回 1回の行動の独立性、および知的な意思決定が促されるのである。
しかし、ここでのメインテーマは、1回 ごとの取引によって自分がどの位置にいるのか、自分のレベルがどの程度のものなのかを知ることはできないということである。
このことを、トレーダーは完全に理解しなければならない。 自分の真のレベルがわかるのは相当数の取引を実行した後である。
敗者は時には宝くじに当たり、王様にでもなった気分になる。 勝者も時には大きく負けて、短期的には偉大さを誇示できなくなる。
しかし、10回から 20回の取引を行えば、真実と虚偽の区別がついてくるものである。
相当数の取引を実施してはじめて、小麦と雑草の区別がつき、真の勝者が王者としてのあるべき地位に君臨するのである。
1回 のみの取引で成功か失敗かを判断することはできない。 10回の取引を終了した時点で成績表をつけてみてほしい。
我々を信じてほしい。 10 回から 20 回の連続する取引が終了した時点で自分の位置、レベルがわかるようになる。
真実は 10回の取引によって判明するということを忘れないでほしい。
DT02-03 ➡ 大衆は長期にわたって勝ち続けることはできない
マーケットの混乱期には、我々が普段接触しているリテール顧客相手のブローカーの多くは、彼らの顧客の個人投資家がマーケットから脱落していく時期を教えてくれる。
これが生じた時には、その直近の株価下落が大底に近づいていることの力強い証拠となる。
株式市場には、株価が底を入れて切り返す前に「弱者」を「振り落とす」という固有の傾向[けいこう]
ある方向・態度に傾くこと。傾き[かたむき]
기울기。特に、左翼思想に傾くこと。
추세がある。
フラストレーションの鞭積度合い、あるいは高揚した陶酔感の度合いは、実は、優れたトレーダーがマーケットの天底をピンポイントで指摘するためのバパバロメーターとなる。
そして、これらのバロメーターは極めて有用である。 その理由を考えてみれば、納得がいくと思う。
金融市場は大多数に利益を与えるようにはできておらず、その結果、株価が調整される際に、典型的な投資家 (多数派) が駆逐される一方で、
優れたトレーダー (明らかに少数派) は生き残り、株価が最終的に上昇に転じる時に十分な仕込みができるのである。 プロは平均的な投資家を間違ったサイドに追いこむことに秀でている。
初心者が買いたい時はプロが売りたい時なのである。 初心者がもう駄目だと思って売りに回る時に、プロは初心者から積極的に買いとって、初心者の苦しみをやわらげるのである。
問題は「読者がこの壮大な喜劇のどちらのサイドにいるのか」ということである。
ゲームが自分に有利に展開し始めようとする時に降参する、旭しい、操作されるグループにいるのか、あるいは反対か。 能力のある者だけが生き残ることができる。
そして、生き残らなければ、成功することができないことも明らかである。 生き残るために精一杯取り組んでほしい。
それは成功するための必要条件である。 環境が厳しくなった時には、勝者の環境も厳しいのである。 このゲームに勝つためには、ゲームに参加し続けなければならない。
今度やめたくなった時には、「この喜劇での自分の役割は何なのだろうか」と自問してみるとよい。 その結果、精神が明白になり、正しい解答が得られることだろう。
POINT ☞ DT02-03 ➡ 大衆は長期にわたって勝ち続けることはできない
トレーディングというゲームは、少数派と多数派の、優れた者と無知な者の、そして持てる者と持たざる者の間の恒常的な戦いである。
ほとんどの場合、持てる者、少数派、そして知識のある者が勝つということを十分に理解しなければならない。 マーケットはそのように作られているのである。
成功するためには、勝ち組に入らなければならない。 しかし、現実には、多数を占める敗者のグループから少数派の勝ち組に鞍替えできる者はほとんどいない。
先に述べた通り、マーケットは多数派に報いるようには作られていないのである。 多数派の存在意義、あるいは多数派がゲームに参加できる理由は、神や勝者への供物 (恒常的な利益) である。
以下の各章で示す比暗はマーケットの仕組みを明らかにするものである。
DT02-04 ➡ バンドワゴン効果一一マーケットの仕組みを垣間見る
バンドワゴン (楽隊車) が賑やかに進んで行く様子を思い浮かべてほしい。
耳に心地[ここち]
기분よい音楽がバンドワゴンのスピーカーから流れてきてはいるが、バンドワゴンの後ろについて思う存分楽しんで盛り上がっているのはごく少数の人々である。
音楽は大きな音で鮮明に鳴り響き、沿道にいる傍観者たちを次第に引きつけて行く。
こうした傍観者たちは甘い音楽に抗することができず、盛り上がっているように見えるパーティーに飛びこんで行く。
傍観者たちが次々とバンドワゴンの後ろに参加していくなかで、当初パーティーの始まりを楽しんでいた人々は離れて行く。 後からパーティーに参加してくる人々が増えてくるに従って、バンドワゴンは同じペースで前に進むことが困難になってくる。
バンドワゴンの進行速度は徐々[じょじょ]に遅くなり、陽気な騒ぎを見物していた傍観者のさらなる参加を可能にする。 群衆はさらに大きくなる。
酔っ払った群衆に半まれてバンドワゴンが前に進めなくなるまで群衆は拡大を続ける。 やがてバンドワゴンは完全に停止する。 バンドワゴンが全く動かなくなると、さらに和群衆が膨らんでいく。
それも当然である。 この時点でパーティーに参加することは極めて容易である。 パーティーに加わろうとする人々はもはやバンドワゴンに飛び乗る必要もなく、何の苦労も要しない。
しかし、バンドワゴンの本分は前に進むことである。 停止しているバンドワゴンは不自然なものであり、したがって、その状態は長続きするものではない。 バンドワゴンは前に進もうとするが、進むことができない。
バンドワゴンの後ろに群がる群衆の数があまりにも多すぎる。 バンドワゴンは何とかこの重荷を振り払わなければならない。 そう、バンドワゴンはバックし、数人をなぎ倒すのである。 音楽が鳴り止む。
群衆の中に困感した顔が見える。 何が起こっているのかがわからぬうちに、再びバンドワゴンは先ほどよりも乱暴にバックする。 さらに多くの人々が放り出される。
そして、現実が目の当たりになる。
突如として准宴は悪夢に変わり、パニックが生じる。 ある者はバンドワゴンから飛び降りて死んでしまう。 さらにバンドワゴンがバックすると、酔っ払って足許のおぼつかない人々が地面に投げつけられる。
この時点で、わずかな、熱狂的なバンドワゴンのファンのみがつかまっている。 彼らの命は非常に細い糸にかかっている。 完全に自由になることができないまま、バンドワゴンはアクセルを全開にする。
この最後のバックはあまりにも荒々しく、最後までバンドワゴンにしがみついていた人々は振り落とされ、地面に叩きつけられ重症を負ってしまう。
この時点で、新たな傍観者の一群がどこからともなく現れる。 彼らは酔っ払っつておらず、平静である。 彼らの一挙手一投足は、今しがたの惨劇に関わっていなかったためか、力強く、はっきりとしたものである。
彼らは誰なのか。 その新しく見える一群は決して新しい顔ぶれなのではなかった。 その一群はパーティーが荒れ狂う前に静かにその場を離れていった人々だったのである。
倒れている傍観者たちは、さらに衝撃的な事実を知る。 彼らはパーティーの最初の頃に参加していただけではなく、パーティーを始めた人々であったのである。 「何ということだ」と誰かが叫ぶ。
振り落とされ、自由に動くこともままならない人々は、ゲームの達人が再び仕事にとりかかるのをただただ眺めるばかりである。
これらのプロの一群はバンドワゴンに向かって駆け出していく。 一瞬のうちに彼らはバンドワゴンに飛び乗る。 あまりにも簡単なことである。
群衆を振り払ったバンドワゴンは、自由に優雅に心地[ここち]
기분よく前進することができる。 その速度は徐々[じょじょ]に加速し、すぐにスムーズなペースを取り戻すのである。
誰にも邪魔されずに数マイルを走ると、これらの達人の中の誰かがスイッチを入れる。 すると、再び楽しげな音楽が大音量で流れ出すのである。 誰かが「さあ、やるぞ。 また奴らがやって来るぞ。
もう 1 回やってやろう」と叫記。 間もなく、先ほどの惨劇の被害者たちが再び興味を持ち始める。 音楽は墓場へと彼らを招いているようでもある。 そして、終わりのない循環が再び始まるのである。
POINT ☞ DT02-04 ➡ バンドワゴン効果一一マーケットの仕組みを垣間見る
この寓話(ぐうわ)のアナロジーをすべて理解することができれば、本書の値段の数倍は価値がある。
そのメッセージを聞き、そのメタファーに隠された真の知恵を理解できたならば、より深い洞察を得て、達人の域に近づくことができる。
一言一句を読みくだくことによって、マーケットの機能に関する深い洞察、そして、いかにウォール街の賢人たちが利益を操作しているかが理解できるだろう。
先に述べたように、本書の目的は大集団の中の初心者を少数の成功者へと変身させることである。 その変身を遂げることができなければ、持てる者たちに弄ばれる玩具となるだけである。
そして、ゲームを続ける意欲を失い、持てる者たちに奉仕できなくなれば、彼らにより破産させられ、排除され、失意に打ちのめされるのである。 そんなことを我が身の上に生じさせてはならない。
トレーディングというゲームに関する真理は今しがた説明したバンドワゴン理論に含まれている。 もう 1回、読んでみてほしい。 読者の将来がそこにかかっているかもしれない。
DT02-05 ➡ お金がすべてではない
オスカー・ワイルドは「若かった頃には、お人金が最も大事なものであると思っていた。 今、齢をとって、まさにそうであることがわかった」と記している。 デイトレーダーにとって、この言葉に勝る真実はない。
マーケット参加者としての究極の成功は儲ける能力によって決定されるのである。 真の意味で、お金が最も重要なのである。
しかし、お金は大事ではあるが、すべてではない。 例えば、損失を被っている取引自体が本質的に、間違った戦略を意味するものではない。 現実の世界に生きていることを決して忘れてはならない。
そして、現実の世界では、最も健全な戦略であっても、必ずしもうまくいかない時もあることを忘れてはならない。 時折[ときおり]
ときどき
가끔 生じる損失は、ある特定のアプローチの全体的な有効性を検証するに足る根拠とはならない。
1回の損失は、マーケットの状況が悪いこと、あるいは確率の突然の変化、予期せねニュース、ポジションをとるのが遅れたこと、あるいはポジションを早く手仕舞い過ぎたこと、執行のミス等々の結果であるかもしれない。
ある特定の戦略の有効性を検証する場合、最低 10 回以上の取引の結果を見なければならない。 願わくば、異なるマーケット環境で、10回や 12回の取引を行ったうえでのトータルの収益がプラスであれば、その戦略に芽はあると見てよいだろう。
逆に、トータルの収益がマイナスであった場合、その戦略が無効であるとの結論を出してよいのだろうか。 25年間の経験から、我々は次のように認識している。 アプローチなり戦略なりが正しければ、自然に儲かるものである。
自らの技術に集中すべきである。 そうすれば、お人金は後からついてくる。
POINT ☞ DT02-05 ➡ お金がすべてではない
トレーダーが損失を被った場合、それが間違った戦略によるものなのか、あるいは、戦略を間違って適用したことによるものなのかを区別しなければならない。
トレーダーがこれを適切に実行できない場合、彼は永遠に自分の影を追い続けることになる。 1つのアプローチが効果を発輝する前に別のアプローチに目移りするトレーダーに進歩はない。
特定の戦略に関する見方は利益の程度によって影響を受けてはならない。 この意味でマネーがすべてではないのである。
なぜならば、非常に稚押な戦略であっても、しばらくの間は利益を上げることもあるからである。 逆に、非常に健全な戦略であっても損失を被ることはある。
しかし、時間の経過に耐え得るのは健全な戦略のみであり、我々にとっては、その時間の経過は 10回の取引を単位とするものである。 10回の取引を行っても、その戦略で利益が上がらなければ、その時に初めて戦略に疑問を持ってもよいのではないか。
前述した通り、10回の取引で、ある程度の結果は見える。 これを忘れないではほしい。
DT02-06 ➡ 疑問を持つことの危険性
マーケットの参加者が「株式市場は複雑でわかりにくい」と発言するのを聞くにつれ、私は笑いたくなってしまう。 こういった認識を我々は持ったことがないし、読者も持ってはならない。
株式市場は本当のところは極めて単純に機能しているのである。 ほとんどの人は最初は賛成しないかもしれないが、少し考えれば、これは否定できない真実であることがわかるだろう。 次の事象を考えてみてほしい。
株価、そう、マーケットには、次の 3つの現象しか生じないのである。
1 ) 上昇
2 ) 下落
3 ) 横這い(よこばい)
それだけである。 これがすべての株価がとりうる選択肢である。 上昇、下落、横遺いである。 何とも単純ではないか。 しかし、「単純」であることは「容易」であることと同義ではない。 トレーディングが「容易」だと考えるのは大間違いである。
もしトレーディングが容易であるならば、皆が金銭的に自立することができる。 トレーディングは決して容易ではないが、トレーディングの機能は比較的単純である。 あまりにも単純であるがゆえに重要性を看過してしまう、あるいは無視してしまう。
もう 1つの根本的な真実を考えてみてほしい。 真実一一買いが売りを上回る場合、株価 (あるいはマーケット) は上昇するしかない。
もちろん、売りが買いを上回る場合、株価 (あるいはマーケット) は下落するしかないということである。 「でも、それは自明なことではないのか」と読者は思うだろう。 しかし、この認識が、聞こえほど確かなものであるかは疑問である。
特に、毎日、以下に示すような疑問を聞いていればなおさらである。
質問 : 今、インテルを売っているのですが、株価が上がっています。 なぜでしょうか?
回答 : この瞬間では、インテルを買いたい人のほうが、売りたい人よりも多いからです。
質問 : それはわかるけど、なぜ ?
回答 : インテルに関して、悪いニュースが今朝流れましたね。 しかし、この悪材料にもかかわらず、株価は上昇している。 この意味することはただ 1つ。 悪材料は無視されており、買い手 (需要) が売り手 (供給) を上回っているということです。
我々の考えでは、あなたのとるべき行動は 1 つだけです。 「理由」に何の意味があるのですか。 3 ドルの損失は、3 ドルの損失以外の何物でもありません。 違いますか。
この最後のポイントは別の論点を含んでいる。 「何」ではなく、「なぜ」を追い求めている時には、極めて困難な状況に陥りつつある。 株価が「何」をしているかは「なぜ」そうなっているかよりもよほど重要である。
「なぜ」は常に株価に織り込織り込んで [おりこんで]まれている。 要するに、チャートはすべてを物語るということである。 株価がなぜ上昇するのかについては無限の説明がある。
それはファンダメンタリストに聞けばよいことである。 テクニカル分析を用いる者として、株価が上昇しており、自分がそれに乗っていればよいのである。 つまるところ、利益が出ればよいのである。
POINT ☞ DT02-06 ➡ 疑問を持つことの危険性
トレーディングの最中に「なぜ」を問うことは、自らが悩み、そしておそらくは困惑し、結果として行動をとることができないという罠[わな]
함정にはまっている兆候である。 その意味で、「なぜ」は危険なものである。
我々は社内のトレーダーが「なぜ」 と言い始めたら、そのポジションを即座に半分にさせる。 それでも「なぜ」 が消えない場合、残りのポジションを手仕舞わせる。 そして、彼に次のように言うのである。
「さあ、好きなだけ『なぜ』を問いかけるがよい」。 我々がそうするのは、戦場は戦術に疑問を持つ場所ではないからである。 疑問を持ち出した瞬間が退場の瞬間なのである。
「なぜ」を追い求めること、理由を探し回ることは、自分が負けたこと、そして、自分の行動に責任を持てなくなったことを意味する。 「なぜ」を問いかけるべきは、取引を開始する前、あるいは取引が終了した後である。
戦いのまっただ中にいる時、とるべき選択肢は行動であり、疑問ではない。 前もって理由を考えておくか、あるいは安全な位置に戻ってから理由を考えればよいのである。
狙撃手の弾丸を一身に受けることが趣味だというなら話は別だが、戦場で疑問を持つことは危険である。