DT00-01 ➡ まえがき
6年ほど前になる。 当時としては洗練されていたトレーディング・システムの前に護って、私は株式市場が始まるのを待っていた。
早く取引をしたくてうずうずしていた。 プロのデイトレーダーとして最初の取引。 寄り付きの鐘が鳴った。
その瞬間に NASDAQ のマーケット・メーカー (自己勘定で売買を行う証券会社や投資銀行)たちが動きだし、赤や緑に明滅する株価に私は心を奪われた。
自分のコンピューターのスクリーンを自由自在に動き回っているようだった。 株価が 激しく[はげしく]
격렬하게動いている最中に、絶好の取引機会がやってきたような気がした。
私は落ち着かなかった。 この明間を待っていたのだが、一瞬のためらいがあった。
しかし、私はデイトレーダーとして身を立てることを決意していた。 クレジットカードの請求額が膨らみ、妻と乳呑み児を抱え[かかえ]
1.雇うこと。
2.年季をきめて抱えてある芸者・遊女。
안아て、私は成功しなければならなかった。
その明間、私は恐怖に襲われ、その場から逃げ出したくなった。 駄目だ、逃げてはいけない。 私は成功しなければならない。 取引を実行しなければならない。
私は、キーボードに手を伸ばし、わずかの間、目を閉じた。 キーボードを通して、私は、マイクロタッチ社 (MTSL) を 4000 株購入していた。
店頭銘柄で値動きが速いことで有名な株だった。 私は 15 万ドル相当の株式の取引が、一明になされてしまったことに和炊いていた。
間もなく、含み益は 4000 ドルになっていた。 数分後には、含み益は、私の前職の給料 2 ヵ月分を上回っていた。 悪い気はしなかった。
いや、最高の気分だった。 そして、人生は順風満帆に思えたのだった。 事態[じたい]
事の有様・成行き。
사태は急変した。 MTSI は勢いを失ってしまった。 私は、利食いを入れるべきか悩んだ。
4000 ドルの利益は、デイトレーダーとしての人生を始めるに当たっては上出来である。 よし、売ろう。 そしてお金を家に持ち帰ってヒーローになるのだ。
再び、キーボードに手を伸ばした。 そして、キーボードに入力する間もなく、MTSI への「買い」が消えてしまった。 心臓が止まりそうになった。 そこには静疲があるのみだった。
一瞬のうちに、私の4000 ドルの含み益はゼロになり、そして再び恐怖に襲われた。 こんなことがあってよいのだろうか。 私は椅子に深々と座り直した。
あっけにとられ、そして困惑していた。 MTSI の買い値は、さらに下落した。 何ということだ。 今や、含み損[ふくみぞん]
現在所持しているFXやCFDのポジションを、市場のレートで計算した時、損失が出ている状態のことが 4000 ドルになっている。
一体何が起こっているのだ。 私は周囲を見回し、70 人余りいるトレーダーが自分を見ていないか確認した。 私のことを見ている者は 1 人もいなかった。
何人かの顔つきから判断する限り、それぞれ自分の問題で精一本のようだった。 私は気持を落ちつけようと必死だった。 しかし、MTSI の下落はおさまらなかった。
株価がさらに 1 ドル下落し、私の含み損[ふくみぞん]
現在所持しているFXやCFDのポジションを、市場のレートで計算した時、損失が出ている状態のことは 8000 ドルに膨らんでいた。 息ができなかった。 私の良識は損切りすべきだとささやいていたが、何かが邪魔(じゃま)をしていた。
私は動きがとれずに固まっていた。 物理的に動くことができなかった。 私は、ただただコンビューターの画面を見ていることしかできなかった。
その後 25 分間にわたって、私は MTSI の下落により損失が1万6000 ドルに膨らんでいくのを苦渋をもって見ているだけだった。
落胆し、落ち込んで、すべての望みが断たれた後で、ようやく損切りの決心がついたのである。 ようやく終わった。 すべてが終わってしまったようだ。
再び、私は自分の周囲を見回した。 私の大失態を目撃した者がいないか確認したかったのである。
しかし、誰も気づいてはいないようだった。 仮に、誰かが気づいていたとしても、気にも留めなかったであろう。
一体これからどうしたらよいのだ。 私を支えてくれたパートナーや妻、家族に何と言えばよいのだと自問した。
これらの問いに対する確固たる答えが浮かんでこないまま、私は唯一できることをした。 頭を抱え[かかえ]
1.雇うこと。
2.年季をきめて抱えてある芸者・遊女。
안아込み、泣いた。
これが私、オリバー・ベレスのプロとしての初めての取引である。 これをもって入学式と呼ぶ人は多いだろうが、私はむしろ卒業式だったと思っている。
というのも、この日をもって、私はデイトレーディング (日計り取引 : 同じ銘柄を当日あるいは数日中に売買する取引方法) で手っ取り早く大金を偽けようなどという馬鹿げた考えを捨てることができたからである。
私は、そういった初心者の集団を卒業し、デイトレーディングの何たるか(この世で最も要求水準の高い仕事である) をしっかりと認識しているリアリストの集団の一員となった。
その日、明滅するコンピューターの画面の前で、私の中の大きな何かが死んだ。 しかし、同時に、より素晴らしく、より大きな別の何かが生まれたのである。
それはすべての物事を解明しようという強い決意をもっていた。 その忌まわしき日に、私は新しい生命を手にしたのである。
打ちのめされたトレーダーの尼が累々とする焼け跡の中から、たいていのトレーダーが実践[じっせん]
実際の情況のもとでそれを行うこと。
실천している場当たり的な手法ではなく、理知的で合理的な手法を手にしようと立ち上がったのである。
力強い向上心が芽生えたのである。 私は、より多くの知識を求め、より高い規律を求め、より多くのスキルを求めて、そしていかなる代償を支払ってでも、それらを会得することを決意した。
私が、こう決意できたことは幸運であった。
その後の 6年間で、私は意味のあるトレーディング哲学を構築することができた。
このトレーディング哲学に基づいたトレーディング・プランを実践[じっせん]
実際の情況のもとでそれを行うこと。
실천していくうちに、人徐々[じょじょ]に理論上だけでなく、実際に利益を上げることができるようになっていった。
今、読者が手にしている本書は、私のトレーディング哲学のほぼすべてを網羅[もうら]
망라している。
トレーディングを始めた日のことを、その日の夜に妻に話すことはできなかった。 しかし、彼女は明らかに知っていた。
彼女は、そのことに一切触れないことによって、私が自尊心を喪失しないで済むおようにしてくれたのであった。
私がその日に起こったことを彼女に打ち明けられるようになるまでに、数ヵ月かかった。 その頃までには、私の新たな決意は実を結びつつあった。
私の取引口座は 25 万ドルに達しており、妻は、叔父たちから借金をすることも、また期限の過ぎたクレジット・カードでオムツを買う必要もなくなっていた。
それから10 ヵ月後には、取引日座は 100 万ドルに達し、私はパートナーシップを離れて独立する決心をしたのである。
今日、自信を持って、私は成功したと言える。 私は巨象を倒し、マーケットに打ち勝った。
毎日、血のにじむような努力を重ね、時を忘れて学んだ結果として、私は意味のあるトレーディング哲学とトレーディング・プランを手にしたのだ。
そして重要なことは、その結果として、利益が上がるようになったのである。 稚は確信を持つことができた。 私は、余裕を持つことができた。
そして、ある人物に出会ったのである。 その人物は、私を一層の高みに引き上げてくれた。 グレッグ・カプラは、
私のパートナーであり、同僚のトレーダーであり、見弟分であり、親友である。
オリバー・ベレス (Oliver Velez)
私が株式市場において真剣勝負を始めたのは、オリバーが人生の転機となる経験をする少し前のことだった。
それ以前の私のマーケット経験は、退屈な公社債や、それよりは少しましな投信に限られていた。
したがって、私がトレーディングのダイナミックな世界に本格的に身を投じようと決意した時に、対象としたのがこの世の中で最も変動の激しい指数オプション市場であったのは極めて当然の成り行きであった。
初心者の私にとって、株式市場の値動きは遅すまずぎたのである。 私は、動きを求めていた。 私は、目の玉が飛び出しそうな利益を、即座に得ようとしていたのである。
こっちで少し、あっちで少しと儲けるアプローチには全く興味がなかった。 そうした考えは時代遅れだと思い、全く無視していた。
私は 10年以上前に、既にビジネスマンとして成功し、十分な富を得ていた。 この頃までには、生活のために稼ぐといった領域を脱していた。
小銭には興味がなく、単に上手くやることには、もはや興味が持てなかったのである。 私は、心からの喜びを追い求めていた。 そう、巨万め富である。
そして、私はスリルのある方法で富を得たかったのである。 指数オプションは、そうした欲望を十分に満たすものであった。
否、むしろあまりにも刺激的過ぎて、デイトレーダーとして成功するチャンスを失うところであった。 私は、衛星通信と接続したハイテク機器とウォール街のブプローカーの口座で武装していた。
指数オプション専門の業界紙を購読して、私はさらに危険な存在になっていた。 準備は万端であった。 私は受話器をとって、ブローカーの短縮ダイアルを押し、戦,闘を開始した。
「3月限の XYZ を 200 枚買ってくれ ! 」
電話の向こう側には沈黙があった。
「お客様、本当に買ってしまってよろしいんですか ? 」
私はどなり返した。
「本当にいいかとはどういう意味だ。 すぐに買え❕」
私はすぐに電話を切り、この大きな取引がいくらで成立したのかを確認する電話を待った。 電話が鳴り、電話の向こう側の声は、私の買い値を不安気な声で伝えた。
私はすぐに画面に目を移し、値動きを追った。 秒単位で私の取引口座の残高は大きく振れ、アドレナリンが体中を駆け巡るのを感じた。
私はトレーディングの世界を全く知らず、指数オプション 200 枚という取引が、動きの激しいインターネット株の 2万株に相当するほどの取引であり、初心者が行うべき取引でないことに気づいていなかったのである。
客が店先で私を呼んでいる気配を感じたが、私は画面から目を離すことができなかった。 客への応対を終え、10分後、私は店の奥に設置したトレーディング室に戻ると、何と、私のポジションは2万6千ドルの含み損[ふくみぞん]
現在所持しているFXやCFDのポジションを、市場のレートで計算した時、損失が出ている状態のことを抱え[かかえ]
1.雇うこと。
2.年季をきめて抱えてある芸者・遊女。
안아ていたのである。
私は手足の感覚がなくなってしまった。 混乱しながら、私はブプローカーに電話をした。 電話の向こう側でも、画面を凝視ながら、私の資金が霧散てていくのを見ていたという。
「もしもし、もしもし」と、ブローカーは繰り返した。 私は、うなるしかなかった。 「カプラさん、カプラさんですか」と、ブプローカーは央粛な日調で繰り返すのだが、私は口を開くことができなかった。
一言も発することができなかったのである。 電話の向こうでは、「カプラさん」と繰り返している。 私は人生で初めてカプラでいたくないと思った。
さらに重要なことは、私は、自分がしなければならないことをしたくなかったのである。 私は、ポジションを閉じることによって、この含み損[ふくみぞん]
現在所持しているFXやCFDのポジションを、市場のレートで計算した時、損失が出ている状態のことを実現したくなかった。
しかし、私はポジションを閉じなければならなかった。 私は損切りをすることが最も賢明な選択肢であることを十分に理解していた。
私は何とか口を開き、トレーダーの用語の中で最も苦しい言葉をつぶやいた。 「損切ってくれ…」。 「ポジションを全部売ってくれ」。
ブローカーは、「成り行きでいいですか」と聞いてきた。 「あぁ、それがどういう意味でもいい」と言って、私は受話器を置いた。 書斎の扉を閉め、外界から我が身を遮断しようとした。
結局、この取引での損失は 3 万ドルを超えていた。 その人金額自体は私にとって痛手となるものではなかったが、金額の多究が問題なのではなかった。
私のプライドと自信が問題なのであった。 これまで自分が挑戦したことには、ほとんどすべて成功してきた。 トレーディングも違いはないはずであった。
その夜、私は、トレーディングをやめるべきか悩みながら家路についた。 「自らのビジネスで十分に利益を上げているのに、何でマーケットにかかわらなければならないのか」。
しかし、やめることは私の主義に反するものであった。 優れたトレーダーになる夢をあきらめることが世界の終わりではないとわかっていたが、私はトレーディングをやめる決心ができなかった。
信じられないかもしれないが、翌朝、私は全く同じ行動をとったのである。 同じオプションを 200枚買ったのである。 しかし、今回は、1時間足らずで 3万 2千ドルの利益を得ることができた。
大きく息をついて、私は、今回の成果を実感しようとした。 しかし、勝利の実感は湧いてこなかった。 取引で利益を上げることはできたが、落ち込んだ気分は変わちなかった。
実力で勝ち取った勝利ではないことを自分自身が一番わかっていたからである。 その日はついていただけなのであり、私のもやもやは解消されなかった。
私の行動にはスキルが伴っていなかった。 私のアプローチには知性のかけらもなかった。 それが我慢[がまん]
辛い事を耐え忍ぶこと
인내ならなかった。
その日に、私はオプションの口座を閉めて、人生を変える結果となる行動をとったのである。 それまでに十分な資金を貯めていたこともあり、私はその日 から 学習に専念することにした。
その日、私はいかなる代償を払ってでも、真っ当な方法でプロのトレーダーになる決心をしたのである。
私がオリバーに出会ったとき、私達は似たような境週諸あった。 我々が共に過ごしてきたなかで醸成きれたトレーディング哲学に従えば利益を上げることができると、私は自信をもって言える。
本書には、そのトレーディング哲学がぎっしりと詰まっている。
グレッグ・カプラ (Greg Capra)